法然上人は、長承2年(1133)4月7日、美作国の押領使・漆間時国の子として生まれ、幼名を勢至丸といいました。9歳の時、父は夜討ちにあい非業の最期をとげ、「恨みを恨みではらしていくと、人の世に恨みのなくなるときはない。出家して誰もが救われる仏の道を求めよ」と遺言を残します。この言葉に従い、勢至丸は比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。この時代、国内は天災や戦乱により混乱し、人々は救いを求めていましたが、当時の仏教は、厳しい修行を経た者や財力のある者だけが救われるという教えが主流でした。そうした仏教に疑問を抱いた法然上人は、長い修行の末、専修念仏の教えを見出し浄土宗を開宗されました。
法然上人の教えは身分や能力、男女を問わず、一心に念仏を称えればみな極楽浄土に往生できるという教えです。専修念仏の教えは不安を抱いていた民衆に救いと希望をもたらしました。法然上人は建暦2年(1212)、80歳で往生されましたが、そのみ教えは弟子たちによって広まり、800年を経た今日も多くの人々の心のよりどころとなっています。
江戸時代の宝暦年間、京都如来寺の廓誉順起が、法然上人のゆかりの地を巡拝することを発起しましたが、その目的は果たせませんでした。宝暦12年(1762)順起の弟子で大阪恋西庵の順阿霊沢が、法然上人の550年遠忌(1761)と順起の33回忌(1763)を機に、師僧順起の遺志を継承し、大坂や兵庫の僧侶や商人と参拝団を結成し、ゆかりの地を巡拝されたのが法然上人二十五霊場巡拝の始まりと言われています。
法然上人二十五霊場は、法然上人の直接のご遺跡のみではなく、上人自作の御影(画・像)、自筆の名号などが現存する寺院や、上人滅後や弟子に関係のある寺院も霊跡とされ、巡拝することで念仏の教えの尊さを知る喜びを得ることができます。そのため近畿圏に加え、岡山・香川・三重と霊場が広域にまたがっていることや、浄土宗の寺院だけでなく、真言宗や天台宗の寺院も霊場の中に入っていることが大きな特徴です。
この度、法然上人ゆかりの寺院とのご縁を結ばれ成満されました巡拝者の方に、証として「成満之證」を授与させていただきます。成満されました方は、二十五霊場各寺院に申請書がございますので、お申し出下さい。
「成満之證」につきましては、事務局よりご送付させていただきます。
法然上人二十五霊場会事務局
〒605-0062 京都市東山区林下町知恩院内
TEL:075-531-2111(代)
FAX:075-531-0099
Email: